これまで、「定額残業代の支払が有効」となるには、「予定していた残業時間の超過分について、別途、残業代の支払をしていたこと」を要件とする下級審裁判例が散見されていました。

これは、最高裁の判例(テックジャパン事件H24.3.8)における櫻井裁判官の補足意見が原因と言われています。

しかし、この度、最高裁は、日本ケミカル事件(H30.7.19)において、最高裁は、「定額残業代の支払の有効性」と、「超過分の支払の有無」は別物であることを判断しました。

日本ケミカル事件の概要

本件「日本ケミカル事件」は、以下のような事実関係の下、XがY社に対し、時間外労働・休日労働及び深夜労働など、時間外労働等に対する賃金並びに付加金等の支払を求めた事案です。

日本ケミカル事件の概要

―雇用契約書―

・月額562,500円(残業手当含む)

―採用条件確認書―

・月額給与461,500円

・業務手当(みなし時間外手当)101,000円

・時間外労働手当の取扱い 年収に見込み残業代を含む

・時間外手当は、みなし残業時間を超えた場合はこの限りではない

―賃金規程― 

・業務手当は、一賃金支払い期において時間外労働があったものとみなして時間外手当の代わりとして支給する

―他従業員の確認書―

・業務手当月額として確定金額の記載

「業務手当は、固定時間外労働賃金(時間外労働30時間分)として毎月支給します。一賃金計算期間における時間外労働がその時間に満たない場合であっても全額支給します」

―支払に関する事実―

・給与支払回数 
15回

・平均労働時間(月あたり) 
157.3時間

・時間外労働時間(月あたり) 
30時間以上×3か月 
20時間台×10か月 
20時間未満×2か月

・給与明細の記載 
時間外労働時間・時給単価の欄はほぼ全月で空欄

裁判所判断の違い

ポイントは、「定額残業代の支払を、法定の時間外手当の全部または一部の支払とみなすことができるか」です。

高裁は、本件において定額残業代と主張された業務手当の支払は、法定時間外手当の全部または一部の支払とみなすことはできないと判断しました。

他方、最高裁はその判断を誤りであるとして、業務手当の支払をもって時間外労働に対する賃金の支払いとみることができる、と判断し、原審に差し戻しとしています。

それぞれ、どのような観点で判断が行われたのか整理していきます。

高裁の判断

「定額残業代の支払を、法定の時間外手当の全部又は一部の支払とみなすことができる」ための要件として、以下の4つを挙げて、これらを満たす場合に限り、定額残業代の支払は有効であるとしています。

高裁の判断基準(定額残業代の有効性)

① 定額残業代を上回る金額の時間外手当が法律上発生した場合、その事実を労働者が認識し直ちに請求することが可能な仕組みが備わっていること

② ①の仕組みが使用者により誠実に実行されていること

③ 基本給と定額残業代のバランスが適切であること

④ その他法定の時間外手当の不払や長時間労働による健康状態の悪化など、労働者の福祉を損なう出来事の温床となる要因がないこと

このように、高裁判決は「定額残業代が予定していた残業時間を越えた場合には、従業員に通知すること」を企業に要求したと言えます。企業にとって厳しい判断だったと言えるでしょう。

高裁は、この4要件を用いて、「日本ケミカル事件」に対しては以下の結論を下しました。

・業務手当が何時間分の時間外手当に当たるかXに伝えられていない

・休憩中の労働時間を管理・調査する仕組みがなく、Y社がXの時間外労働の合計時間を測定できない。

業務手当を上回る時間外労働手当が発生しているか、Xが認識できない(要件①を欠く)

業務手当の支払を法定の時間外手当の全部または一部とみなすことはできない
業務手当を基礎賃金に組み入れた額を基礎賃金として算定された未払い賃金の支払と付加金の請求を認容

最高裁の判断

まず、労働基準法37条の解釈から、定額の手当を時間外労働の対価(割増賃金)として支払うことを認めました。

労働基準法37条の課している義務

①時間外労働において割増賃金を支払うべきことを使用者に義務付けている。

→その趣旨は以下の2つである

・時間外労働を抑制し、労働時間に関する規定を順守させること
・労働者への補償を行う

②(関連法令を含め)割増賃金の算定方法が定められている。

→定められた方法によって算出される額を下回らない額を支払うことを定める趣旨

定額手当による残業代の支給の可否

労働者に支払われる基本給や諸手当にあらかじめ含めることで割増分を支払う方法自体が、直ちに労働基準法37条に反するということではない。

よって『使用者は労働者に対し、雇用契約に基づき時間外労働等に対する対価として、定額の手当を支払うことにより、労働基準法37条の割増賃金の全部又は一部を支払うことができる』

その上で、最高裁は、高裁が示した定額残業代に関する4要件を否定し、新たな考慮要素を示しました。

最高裁の判断基準(定額残業代の有効性)

① 雇用契約に係る契約書等の記載内容

② 具体的事案に応じ、使用者の労働者に対する、その手当や割増賃金に関する説明の内容

③ 労働者の実際の労働時間等の勤務状況

最高裁は、この3要件を用いて、「日本ケミカル事件」に対しては以下の結論を下しました。

・雇用にかかる契約書・採用条件確認書・賃金規程 において、業務手当が時間外労働に対する対価として支払われる旨が記載されていた。(①ないし②)

・X以外の従業員の確認書にも業務手当が時間外労働(30時間分)に対する対価として支払われる旨が記載されている。(①ないし②の補助事実)

・Xに支払われていた業務手当は、1か月の平均労働時間を元に算出すると訳28時間分に相当するもので、実際の時間外労働時間と大きな乖離はない。(③)

Y社の賃金体系においては、業務手当が時間外労働等に対する対価として支払われるものと位置づけられていたということができる

Xに支払われた業務手当は、本件雇用契約において時間外労働等に対する対価として支払われていたと認められるから、手当の支払をもって時間外労働に対する賃金の支払いと見ることができる

高裁のいう、Y社の労働時間の管理状況等の事情は、この判断を妨げるものではない

以上のように判断し、原判決中、Y社敗訴部分は破棄しました。そして、Xに支払われるべき賃金の額・付加金について審理を尽くさせるため原審に差し戻しました。

実務上の注目点

定額残業代の有効性判断

本件によって、いわゆる定額残業代の支払が法的に有効かどうかについて、裁判所の新たな判断基準が示されました。

これまで、この点について判断した代表的な判例にはテックジャパン事件が挙げられます。この判例によって示されている判断基準と今回示された基準を併せると次のようになります。

定額残業代に関する最高裁の判断基準(現在の到達点)

Ⅰ 明確区分性
通常の労働時間の賃金に当たる部分と同条の定める割増賃金に当たる部分との「判別が可能であること」
→テックジャパン事件

Ⅱ 対価性
通常の労働時間に対する賃金と区別された手当が、「時間外労働の対価であると認められること」
→日本ケミカル事件(最高裁)

Ⅲ 割増賃金に当たるとされた部分が「労働基準法37条等による方法で算出する割増賃金の額を下回らないこと」
→日本ケミカル事件(最高裁)

日本ケミカル判決が実務に与える影響

過去の判例

本件の前に判示された代表的な判例として挙げたテックジャパン事件においては、櫻井裁判官が補足意見として、定額残業代を運用するにあたって求められる項目を以下のように示していました。

櫻井裁判官の補足意見

①その旨が契約上で明確にされること

②支給時に支給対象の時間外労働の時間数と残業手当の額が明示されていること

③所定の一定時間を超えて残業が行われた場合に、別途上乗せして残業手当を支給する旨があらかじめ明らかにされていること

櫻井裁判官の補足意見の特徴は②にあります。
従来から、この補足意見の位置づけには争いがありました。本来は、「補足意見」は判決の内容ではなく、先例性をもたないはずです。

しかし、櫻井裁判官の補足意見を基にして、「定額残業代制度が予定していた残業時間を越えた場合は、上乗せ支給する合意があったこと」や、「実際に上乗せ支給が行われていたこと」を、定額残業代の有効性の要件として扱った判決が下級審で散見されていたのです。

日本ケミカル事件の高裁の判断

高裁の判断は、定額残業代が有効であることの要件として、「定額残業代制度が予定していた残業時間を越えた場合に、上乗せ支給がされていたこと」を要求しています。
日本ケミカル事件の高裁の判決も、この櫻井裁判官の補足意見に従ったものといえるでしょう。

しかし、論理的には、超過部分の上乗せ支給がされていたかは、「未払い残業代」の話であり、「定額残業代の有効性」とは無関係なはずです。

この点、日本ケミカル事件において、最高裁は、「高裁が示したような厳格な要件は必須のものではない。」と明言しました。
これによって、定額残業代の有効性は、いわゆる「区分性」と「対価性」の要件に落ち着くことになりました。

また、定額残業代の有効性その判断において、会社と従業員の間の合意内容(労働契約書・採用条件確認書・賃金規程)などを重要視したことも、今後の実務の指針となるでしょう。
すなわち、定額残業代を採用したい会社は、雇用時にこれらの書面を充実させておき、従業員との合意をとっておく必要があります。

本件では、給与明細に時間外労働の時間数や時給単価が記載されていない・休憩時間内で業務に従事していた一部の時間について管理されていなかった、という事情がありながらも、定額残業代の対価性を肯定しました。

また、使用者は給与支給の都度、割増賃金の算定基礎額や時間外労働時間数を明示し、労働者が法律上発生した時間外手当と定額残業代を比較確認できるような仕組みを整えなくとも、手当の時間外労働対価性が肯定されることになります。

超過時間の支払も気を付けること

本件最高裁の判断は、「定額残業代の有効性」が認定されるために使用者がとるべき措置についてハードルを下げる影響を持っていると言えます。

しかしながら、労働時間を把握して、適切な残業代を支払うことが使用者の義務であることは忘れてはいけません。
日本ケミカル事件においても定額手当の時間外労働対価性は肯定されましたが、最高裁は「Xに支払われるべき賃金の額・付加金について審理を尽くさせるため原審に差し戻す。」としているのであって、超過時間についての支払いが不要と結論付けたのではありません。

「正しい残業代を支払っていること(超過部分についての正確な支払)」は、従業員との信頼関係を崩さないためには、必要不可欠の行為なのです。

労働者にその情報を逐一示すかは別として、労働時間に関しては可能な限り正確に把握しておき、正確な支払を心がけるべきです。
使用者の立場におかれましては「労働時間の手抜き管理は危険である」という認識を持ち続けていただきたいと思います。